トップ  > メンバー(利用者)ブログ  > 感謝、そしていまあるよろこび。

感謝、そしていまあるよろこび。

いわゆる普通の子供でした。
 
小さなころから(残念ながら今に至っても)太っていて、少しばかり身体能力が低かったかもしれません。
 
しかしそれが原因でいじめられるようなこともなく、少しだけ潔癖で教育熱心な母と、仕事に邁進して寝るときにだけ家にいた父、そして程よく仲の良かった弟と一緒に育てられました。間違いなく愛された子供時代だったでしょう。
 
中学の頃、少しだけ、周りの友人と上手くいかないな、と思うようになりました。事実本当に上手くいっていなかったかどうかは、今となってはよくわかりません。
 
上手くやらなければならない、と思って先走る。自分を良く見せようとして嘘をつく。バレタ嘘を取り繕おうとして迷惑をかける。良かれと思ったことが悪いほうに転がる。そうしているうちに何が良かれか分からなくなって、上手い距離の取り方ができなくなる。
 
悩んだ挙句にサブカルチャーの本を読んで、両親に相談せず一人精神科に行き、薬を貰い始めました。中学の2年生か3年生ごろだったと思います。
 
その後、両親に精神科への通院を告白したのがいつだったかは覚えていません。成人前ではあったと思います。そのまま現在まで通院し、その病歴によって受給者証(A型)を貰っています。
 
話は戻って。高校は地元の県立に入学し、卒業までを過ごしました。高校時代もやはり、人との関係に悩み続けた3年間だったと思います。
 
自分の受験シーズンのころは、薬漬けと言って差し支えなかったでしょう。医者を騙すようにして薬を大量に手に入れ、楽になるのであればとアルコールを飲んで外出することもしばしばでした。
 
病院へ通う目的は薬を貰うためだけで、僕自身が一番、病気の快癒を信じていませんでした。
 
大学受験は当然のように落ちました。まともに勉強もしていなかったのですから、当たり前です。僕の人生を何とかしようと塾にお金をつぎ込んでくれた両親には申し訳のないことをしました。
 
大学に行かずにずっと家で過ごし続ける訳にはいきません。一年間の予備校通いを経て(これも途中からさぼりってばかりでした)建築会社に就職しました。勉強だったり仕事だったりに対して、真面目に取り組まなかったことはありません。
 
しかし、いつも集中力が続かず、何かを始めてしばらくすると投げ出したくなります。僕はこれをずっと鬱病のためだと思っていました。
 
当然、そういった人間と長く働いてくれる人は少ないです。その建築会社もやめ、いくつかのバイトを転歴して、ついには仕事を探すこともやめたある日に、転機が訪れました。
 
それは、近所にあるかかりつけの小児科を兼ねた内科の、受付窓口の下におざなりに貼ってあった”睡眠時無呼吸症候群”についての広告。
 
最近になってようやくその言葉が(悲しい事件と共に)世間に浸透してきました。僕がその張り紙を見つけたのは、まだそんな言葉がTVやネットで流れることのなかったころです。
 
田舎の内科医らしい安価で簡易な道具を使っての検査を受けたあと、これは無呼吸症候群そのものだ、ということで九大病院を紹介されました。
 
九大病院での僕の担当医は当時から無呼吸症候群を専門に研究・治療している方だそうです。診察室で向かい合い、僕に口を開けさせて中を覗き込んだ医師の、最初の一言はこうでした、「ああ、これはダメだ」
 
無呼吸症候群はその病名通り、睡眠中に頻繁に呼吸が止まります。原因は肥満や骨格だそうで、僕の場合、骨格の作りによって眠っている間に舌が喉の奥に落ち込んで気道を塞ぐんだそうです。
 
僕の場合は一分以上の無呼吸が起こることも頻繁でした。睡眠中に呼吸をしていないということは、脳に供給される酸素が足りなくなります。
 
それで、(詳しい医学的な機序は知りませんが)眠って(目をつぶって布団に入っていびきをかいて)いるにも関わらず、身体は起きているのと変わらないとのことでした。当時の僕の睡眠中の呼吸は、完全に呼吸ができている状態に対して60%ほどだったそうです。
 
医師が分かりやすく説明してくれた言葉によれば、毎晩の睡眠時間が2時間で日々をすごしているようなものだったのです。
 
医師には、「今までに診た中で3番目に数えられるくらいに重症」で、「このままだと眠っている間に脳の血管が破裂して死ぬぞ」と、何度も何度も言われました。
 
しかし、当時の僕は何に対してもやる気がでず、まともに病気と治療に向き合うことをしませんでした。
 
無呼吸症候群の治療はいたってシンプルです。眠っている顔の鼻部分にマスクを着けます。マスクには2メートル程度のホースがついていて、ホースの先にはCPAPと呼ばれる機械があるのです。その機械はホースとマスクを通して僕の鼻から体の中に強制的に空気を流し込み続けます。
 
マスクは、装着しているそのこと自体がストレスになりますし、ホースの長さによって行動の自由も制限されます。マスクに送られる空気は、こちらの呼吸が止まったのを感知して、そのときだけ空気を送り出してくれるというほど便利ではありません。CPAPのスイッチを入れた瞬間から、常に僕の鼻には空気圧がかかっています。
 
僕はその治療をちゃんとやりませんでした。面倒だからとマスクをせずに眠る日が続き、月に一度の検査の結果は悪くなるばかり。その月に一度の診察と検査、CPAPの機械のレンタル保守費用にかかる一万円以上の金額を、両親が払ってくれているにも関わらず。
 
加えて言えば、病院に行きたがらない僕を車に乗せてつれていき、長い待ち時間を一緒に付き添ってまでくれました。どれほどの負担と心労だったでしょう。しかも、その当時の僕が全く感謝していなかったとなれば。
 
それでも時間は流れます。何かの拍子に(それは本当に、単に機嫌が良かったとかで)マスクをちゃんと付けて眠った日がありました。とてつもなく快適な朝でした。そしてやっと気づいたのです。単にマスクをつけて眠るだけで、僕の一日はこれほどにすがすがしくなるのだと。
 
治療が始まって既に数年が経過していましたが、ようやくマスクをつけて眠る努力を始めました。
 
当然ながら初めは上手くいきません。眠っている間にマスクを止めているバンドがはずれたり、送られてくる空気が煩わしくて、逆に眠れなかったり。
 
それでも続けていくうちに、やがてマスクをつけて眠ることが当たり前に感じるようになりました。
 
しかし、僕の鬱病が治ったわけではありません。
 
失敗を続け、内に(家に)籠ることに慣れきった僕が仕事を探そうと決意することはハードルの高いことでした。ずっと家にいる間に性格も悪くなっていたと思います。
 
それは今でも同じで、ちょっとしたことでカっとなったり、色々なことに対する我慢が足りなかったり。
 
話は変わります。父にはAさんという仲の良い友人がいます。Aさんは僕の現状をよく知っていてくれて、何かにつけて”年賀状の住所録の作成と印刷”だとか”名刺の整理”だとかいって仕事を与えてくれました。
 
単にPCで遊ぶことが好きなだけの僕に出来そうなことを見つけ出しては仕事と、その手間賃をくれたのです。
 
2013年の暮れ、毎年の恒例のようにAさんの事務所へ年賀状の印刷に行きました。
 
僕が主にやることは年賀状の宛名と住所を確認し、Aさんの考えた挨拶をタイプして印刷することです。
 
正直な話、前年までの年賀状印刷をまともにこなせていたとは、とても言えません。失敗ばかりする、確認をせずに進めてしまう。ほんとうにどうしようもない仕事ばかりしていたように思います。
 
2013年もそのことが頭をよぎり、気の進まないままにAさんの事務所へ向かいました。
 
でも、その年、僕は日中に一切眠くならず、多少もたつくことはあっても、きっちり確認するまでテキトウに進めてしまわない、という当たり前のことができました。
 
日中に仕事をしていて眠くならない。これが、どれほどの喜びだったことか。
 
何をしてもすぐに集中力が切れて頭がぼーっとしてしまう僕が、ちゃんと自分で納得のいく最後まで、仕事をやりきることができたのです。
 
ああ、無呼吸症候群の治療が上手くいっているんだ、とやっと実感しました。
 
かつて予備校に通ったりパートタイムで勤めた時のことを思い出します。朝は常に眠く、電気量販店で一番大きな音の出る目覚まし時計の音が鳴っても、一人では決められた時間に起きられない。
 
座り仕事ならば、仕事が始まっていくらもしないうちに眠気が頭をもたげ、立ち仕事ならば数時間で疲労が極まる。
 
いつも早く仕事が終わってくれることを祈り、なんとかサボる理由がないかを考えていました。
 
自分はだらしがなく、覇気がなく、継続も出来ない駄目な人間だと、そう考えるようになって何年がたったでしょう。
 
でももしかしたら、もしかしたらそれは天に与えられた僕の変えがたいパーソナリティなのではなく、無呼吸症候群という病によってもたらされたものかもしれない。
 
ずっとだらしのない生活を送ってきた僕だから、そのだらしのなさはすでに僕の一部となって久しいでしょう。
 
けれどもそれを努力で直すことが出来て、自分の望むような人間に変わっていけるのかもしれない、という希望。
 
すでに何度も何度も、失敗してばかりの僕に仕事を与え続けてくれたAさんの事務所で、やっと、次の何かを探し始めようと考えていました。
 
その年賀状を印刷した日はちょうどクリスマスでした。帰りのバスの車窓から見える沢山の人影に夕日の橙が落ちていました。
 
あんなにきれいな彼女だって、あんなにかっこうのいい彼だって、クリスマスだろうが仕事をしていて。あの人はあんなに大きなカバンをもって、これからまた一仕事だろうか。
 
疲れは心地よく、それが未来に繋がるのならば、その中に混ざりたいと思いました。次の月曜日から仕事を探し始めました。
 
いつのまにか、引き籠り始めてから7年が過ぎていました。すでに僕は34歳で、何の経験も技術もない。だから簡単な仕事を。そう思ってもなかなか見つかりません。
 
そして、34歳なのだから、今更焦ってもしょうがないとも思いました。失うものは全て失いつくしました。
 
失敗するかもしれないけれど、そうしたらまた次へ。そう思って仕事を探し続けたその年が明けての、3月。Aさんから、カムラックのことを教えてもらいました。
 
すぐにカムラックに行き、説明を受け、その足で帰りにハローワーク他諸々へと行きました。やがて面接を受け、働けることになり、4月1日。
 
JRで博多駅まで出て、そこからバスで呉服町へ。バス停からは大通りを渡ってすぐです。
 
説明と面接とで2度来たことのあるビルの扉を開けてエレベーターで5階へ上がると、カムラックの扉が見えます。
 
とてつもなく緊張しながらカムラックの扉を開けました。中にはすでに来社しているメンバーと、自分のために用意されたデスクとPC。
 
これ以上にうれしいことなんて、ほかに何があるでしょう。
 
 
カムラックあんしんラボ呉服町事業所では、障がい者の方がパソコンを活用し、ホームページ制作、コンピュータグラフィック、デザイン、データ入力、名刺作成、アプリケーションやソフトウェアの開発・動作確認、施工図作成、ITを活用した手話サービス等、パソコン軽作業から各種プログラム開発まで幅広いお仕事をしています。
 
 
 
 
 
 
 
 
カムラックのホームページはコムログクラウドで作られています。
一般公開するまで無料で使えますので是非触ってみたください。
 

 


 

 


上記、移行支援バナーは、移行支援事業所の利用者が制作しました。

ComeLuck県庁前事業所

〒 812-0044

福岡市博多区千代4丁目1-33 西鉄千代県庁口ビル1F

TEL:092-980-1050

FAX:092-980-2436